南北朝・菊池一族歴史街道推進連絡協議会 連携自治体のスポット紹介
更新日:2024年2月29日
「南北朝・菊池一族歴史街道推進連絡協議会」とは?
現在の熊本県菊池市周辺を拠点に活躍し、南北朝時代に南朝方として九州制覇を成し遂げた英雄・菊池武光の生誕700周年の節目を迎えた2019年、武光とゆかりのある菊池市久留米市、八女市、小郡市、うきは市と大刀洗町で、「南北朝・菊池一族歴史街道推進連絡協議会」を発足しました。
「菊池一族」とは?
平安時代から室町時代にかけて肥後で活躍した武士の一族。蒙古襲来絵詞、太平記など名立たる書物に足跡を刻み、朝廷や幕府にまでその名を知らしめました。
連携自治体のスポット紹介
大刀洗町
「大刀洗」この特徴的な町名の由来は、南北朝時代の1359年、肥後の豪族・菊池武光率いる南朝方と筑前大宰府を本拠とする小弐頼久率いる北朝方が、現在の小郡市大保付近で激突した「大保原合戦」に勝利した菊池武光が、激戦で血の染まった太刀を川で洗った、という故事に由来しています。
■菊池武光公の銅像
大刀洗川のほとりに広がる大刀洗公園には、菊池武光が太刀を洗った場所とされる菊池渡と、昭和12年に建てられた菊池武光の銅像があります。この像をよくみると、あちこちに傷や穴があるのがわかります。これは第二次世界大戦中の昭和20年3月大刀洗飛行場空襲によりできたものです。
■菊池武敏と大刀洗
武光の台頭する前の延元元年(1336)、多々良浜の戦いで足利尊氏に敗れた肥後の菊池武敏は、本郷の三原朝種に護られて「三原城」に逃げ込みました。ここで10日あまり籠城して戦ったが、とうてい足利方の仁木義長の攻撃を支えることはできませんでした。暗闇に紛れて八女の黒木城に走りましたが、ここでも防ぎきれず惨々の態で居城隈府に逃れかえりました。
■三原城
三原城は石垣を高く積んで、天守閣をもつような城ではなく、屋敷を堀でかこんだ館です。今でも堀の跡がよく残っています。天正14年(1586)に当主三原紹心が太宰府の四王寺山の岩屋城で鹿児島の島津軍との戦いで討ち死にし、城としての役目は終えました。平地にある城(館)で堀がはっきり残っているのは福岡県内では三原城だけで、大変めずら しい遺跡です。平安時代より栄えた三原家代々の居 城・三原城があった本郷地区は、現在も昔ながらの街並みがたくさん残っています。白壁造りの家や寺社仏閣、醬油の蔵元、酒造など歴史情緒あふれる街並みが広がります。
菊池市
県内では菊池市にしか見られない「亀趺(きふ)の墓」と呼ばれる菊池一族の墓が4基残されています。13代武重(たけしげ)、15代武光(たけみつ)、17代武(たけ)朝(とも)、23代政(まさ)隆(たか)の墓で、全て市の指定文化財になっています。亀趺の墓とは、亀(き)蛇(だ)と呼ばれる空想上の生き物の背の上に墓碑が乗った墓のことで、めざましい孝徳を積んだ人にだけ許される特別な墓です。
■武光の墓(神道碑)
熊耳山正観寺(ゆうじざんしょうかんじ)(東正観寺)にあります。正観寺のクスの樹下にあった墓は時代とともに廃れ、江戸時代には荒れ果てていました。文教菊池の祖とされる渋江紫陽(しぶえしよう)・松石(しょうせき)親子はそれを憂い、菊池一族の顕彰の大きな柱として武光墓所の整備に尽力します。そして、同じ南朝方の立役者楠木正成(くすのきまさしげ)に亀趺の墓が許されるのなら、武光もそうあるべき、と考えます。その願いが成就し安永8(1779)年、湊川(みなとがわ)神社(神戸市)にある正成の墓に倣って武光の墓が造られました。亀蛇は細面で吊り上がり気味の鋭いまなじりを持つ、とても凛々しい顔立ちです。
■武重の墓
先に造られた武光の墓に倣って、文化13(1816)年、輪足山東福寺(わたるざんとうふくじ)(亘)の歓喜院(かんきいん)と呼ばれていた場所に建てられました。武光の亀蛇よりやや丸顔ですが、切れ長の鋭い目元など武光のものとよく似た、すっきりとした顔立ちをしています。
■武朝の墓
菩提寺といわれる真徳寺(しんとくじ)跡(金峰)にあります。前の2基とはやや趣を異にし、亀蛇の顔や体つきは丸みを帯びています。大きな楕円形の目玉が特徴的な亀蛇です。昭和36年に武朝の墓であることが確認されました。
■政隆の墓
久米原の戦いに敗れ19歳で果てた政隆の墓は、自刃した安国寺(あんこくじ)(久米一)の裏手にあります。この亀蛇は、初期に造られたものと比べ、全体的に丸みを帯びた柔らかい体つきが特徴です。丸顔にまん丸の
瞳、太くて長い首など愛らしく親しみやすいものとなっています。
小郡市
福岡県小郡市は、筑紫平野から福岡平野へ抜ける場所に位置し、古来多くの人々が行き交った交通の要衝です。古代から中世まで九州を統括していた大宰府にも近く、南北朝時代には、九州を二分する南朝方と北朝方が雌雄を決した大保原合戦(大原合戦)の舞台となりました。 市内には今でも合戦に関する史跡が残っており、戦いのあった夏を中心に毎年多くの人が訪れます。
■高卒都婆(たかそとば)
自衛隊の自動車訓練場横の墓地の一画に、1923年(大正12)三井郡教育会が建てた「史蹟高卒都婆」の碑があります。碑の裏面には「大保原戦ニテ戦没セシ将士ヲ埋葬供養セシ所ナリ。今尚此附近ヨリ屡々多クノ枯骨ヲ発掘ス」と彫られています。合戦の戦死者を葬り、冥福を祈るため卒塔婆を立て、千僧相寄って供養した場所とされています。毎年、地元の保存会を中心に慰霊祭が行われています。
■福童原古戦場跡(ふくどうばるこせんじょうあと)
大保原合戦(大原合戦)の後、1361(正平16・康安元)年に懐良親王・菊池武光ら征西府は大宰府入りを果たします。しかし、北朝方は今川了俊を九州探題に任命し、1372(文中元・応安5)年、大宰府を奪還しました。高良山に退却することになった懐良親王ら征西府でしたが、了俊は高良山の征西府を攻めるために福童原に陣を敷き、1374(文中3・応安7)年9月に高良山を攻略、征西府は菊池へ撤退しました。そしてこの後、征
西府が再び九州で覇権を握ることはありませんでした。福童原古戦場跡
は、その合戦での死者を葬ったと伝えられる塚がある場所です。
久留米市
筑後川と共に久留米市のシンボルとも言える高良山。耳納山地の最西端に所在する標高312mの山です。 筑紫平野を一望できるこの山には、筑後国一ノ宮の高良大社が鎮座し、今も崇敬を集めています。また、高良山は九州の南北・東西を結ぶ水陸交通の要所を押さえる位置にあり、古代から神(こう)籠(ご)石(いし)が設けられるなど、軍事拠点としても重要な場所でした。 1359年、懐良親王や菊池武光らは征西府を高良山へ進め、筑後川を挟んで少弐氏と対して、大保原の合戦を戦います。その2年後の1361年には遂に大宰府へ進出し、九州を制覇しました。 ところが1372年に、征西府は九州探題として派遣された今川了俊の反撃を受け、大宰府から高良山へ撤退することとなります。 南朝方はその後約2年間、高良山を征西府として北朝方と戦いました。その間に菊池武光・武政父子が相次ぎ急逝し、主力の菊地勢当主に弱冠12歳の武朝が就任する事態となった南朝方は、筑後川対岸に北朝方が迫る状況を見てついに高良山を放棄し、菊池の隈府城へ撤退しました。 慎重な今川了俊は約1ヵ月もかけて状勢を確認したのち、ようやく筑後川を渡るとすぐに高良山を支配し、翌月には山鹿まで進軍しています。 これを最後に、南朝方の勢力は衰退していくこととなります。つまり、高良山は九州南朝の命運を握る山だったのです。 高良山の山頂にある毘沙門岳城(別所城)は、懐良親王が在城したとされる城で、空堀や土塁などの遺構が残っています。その直下にある高良大社奥の院には湧水があります。この湧水には、北朝方に高良山を包囲され窮地に陥った懐良親王らが、出陣に際しこの水で杯を交わしたところ、戦わずして敵が退去したという伝説があり、「勝ち水」と呼ばれています。
うきは市
うきは市指定文化財(史跡)の正平塔(しょうへいとう)は、うきは市吉井町千年(ちとせ)の小江(おえ)の集落の中、北新川(きたしんかわ)沿いの閑静な田畑の中にある石塔です。この塔が建てられたのは正平18(1363)年。中世の南北朝時代のことです。南北朝時代までさかのぼる石塔は福岡県下でみても非常に古く貴重な石造物です。
この塔を建立した調衆(しらべしゅう)一門は、黒木助能(くろきすけよし)を始祖とする星野(ほしの)、黒木、川崎(かわさき)の三氏の総称で、なかでも星野氏は、耳納山の複数の山城を拠点として吉井周辺を支配していました。
南北朝の戦乱時には、肥後の菊池氏と征西将軍懐良親王を奉じ南朝に尽くしました。北朝の武家側とは幾度も戦い、多くの生命が失われました。 とりわけ正平14(1369)年には、大規模な戦いが勃発します。関ヶ原合戦、川中島合戦と並んで日本三大合戦とも呼ばれる大原合戦(大保原)合戦、筑後川の戦い)です。筑後川をはさみ、両軍合わせて10万ともいわれる大軍が戦ったこの合戦は、南朝方が勝利を収めましたが、両軍最大の激戦であったため双方ともに多数の戦没者を出しての終結となりました。 南北朝の動乱の中、星野氏をはじめとする調衆も、多くの一族郎党が犠牲となりました。この塔には、次のような銘文と梵字が刻まれています。「願以此功徳(がんにしくどく)、普及於一切(ふぎゅうおいっさい)、我等與衆生(がとうよしゅじょう)、皆共成佛道(かいぐじょうぶつどう) (願わくば此の功徳を以て普(あまね)く一切に及ぼし、我等も衆生とともに、皆共に沸道に成(じょう)ぜん)」。これは『法華経』の一節で、数多の戦いの中で散華した南北両軍すべての犠牲者の供養を願っていることが読み取れるものです。この塔には、調衆の平和への願いが込められているのかもしれません。
八女市
八女市では、南北朝に関する伝承や行事、文化財が現在に至るまで地元住民によって大切に守られています。今回は五條家御旗祭(ごじょうけみはたまつり)と大杣公園祭(おおそまこうえんさい)についてご紹介します。
1338年に南朝の軍事的な支柱と言うべき北畠顕家(きたばたけあきいえ)、新田義貞(にったよしさだ)が戦死したため、後醍醐天皇は態勢の立て直しを余儀なくされ、皇子を各地に派遣しました。九州に派遣されたのは懐良親王。後醍醐天皇から征西将軍宮に任じられ、その印として金烏の御旗(きんうみはた)と恩賞と懲罰についての裁量権を与えられた親王は、五條頼元を筆頭とした総勢わずか12人で九州に向かいます。薩摩半島南部を経由し、1348年に肥後菊池に入った一行は、菊池武光を味方にするなど南朝勢力の結集に成功しました。1359年の大保原合戦(筑後川の戦い)に勝利した後は1361年に征西将軍府を太宰府に開き、九州を制覇するなど大きな成功を収めます。
1372年、今川了俊(いまがわりょうしゅん)によって太宰府が陥落した後は、懐良親王のおいにあたる良成親王が後を継ぎ、1392年の南北朝合一後も抵抗を続けますが、親王は志半ばで筑後矢部で没しました。 八女市黒木町には懐良親王、良成親王に仕えた五條家の子孫が今も残り、八女市矢部村大杣公園内にある良成親王墓を守部として守り続けています。毎年9月23日には市指定文化財でもある五條氏邸において、地元住民で組織された五條家宝物顕彰会主催により、五條家ゆかりの宝物が一般公開される五條家御旗祭が開催されます。また、10月8日の良成親王の命日には、八女市矢部村で亡くなられた親王の御霊を慰めるため、公卿唄や浦安の舞を奉納する大杣公園祭が開かれています。
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